Einblicke in ein Gespräch mit Wakamatsu Jōtarō

Interview geführt von Abdurrahman Gülbeyaz

若松丈太郎との対談からの洞察


まえおき


4月28日と29日、私は友人の医師、兵庫県保険医協会の代表、京都の出版社の専務とともに、福島第一原発から25キロほど離れた人口5万人の町、南相馬市の詩人、若松丈太郎の自宅を訪ねた。
到着すると、彼は駐車場の外で私たちを待っていた。この列島の標準からすると長身で、上半身がやや左に傾いているような、やせ形の人物だった。絹のような白い髪で、その色はシェイクスピアを専門とするハンブルク大学の元英文学教授を思い出させた。
学校教育が(唯一とは言えないにせよ)確実に生み出す成果である、あのかすかではあるがはっきりと見て取れる歪みは、伝統的な「学者の側弯症」の顕著な一例である。 彼の体をざっと見ただけで、この人物は学校教育という迷路をくぐり抜けてきただけでなく、自ら進んで多くのことを書いてきたに違いないという確かな印象を受けるか、あるいはそのような結論に誘われる。しかし、彼はとても身軽で、機敏に見え、温かく迎えてくれ、家まで案内してくれる。
玄関では若松夫人が出迎えてくれる。彼女はとても楽しい表情をしており、すぐに社交的で親しげに見える。厨房を通り、洗面所に通される。大きなこたつを囲んで座り、お茶とお菓子をいただく。道具を取り出し、何から始めようかと考えていると、仲間の一人が質問を始める。私は感謝しか感じない。
しかし、「詩とどのように出会ったのか」「どのように詩を書き始めたのか」という最初の問いには、返答らしきものがまったくない。これが導入口となるはずだったのだが──。私はやむをえず主導権を取る。できることなら彼に何も尋ねず、ただ自由に語ってもらいたい。しかし、それはほとんど不可能に思える。
理由は、彼がとても謙虚だからである。自分のことを自ら語ろうとはしない──それは私にもよく理解できる。そして、彼は私に対して畏敬の念を抱いているようでもある。この状況は、どこかしら奇妙で複雑な状況だ。どうやら私たちは、同じく自らに課したハードルによって、共につまずいているようなのだ。私は恭しく『先生』と呼びかけるが、すぐに彼の猛烈な抵抗にあう。彼は、多くの点で間違いなく先生であるにもかかわらず、先生と呼ばれたくないのだ。彼は、先生と呼ばれることを正当化するようなことは何もしていないし、何もしていないと言う。
詩のささやかな源
人間と言葉について、若松さんは詩人としてどうお考えですか。
若松:かつて、ギリシアのテオ・アンゲロプロス監督の「旅芸人の記録」という映画を見ました。そのときとても感心した場面がありました。旅芸人たちがある町を歩いているのですが、一瞬で過去と現在を行ったり来たりするその場面が、詩にも使えるのではないかとヒントをもらったように思いました。映画を2回見たことはあまりありませんが、これは2回見ました。アンゲロプロスは私と同年生まれです。少年時代に戦争を体験し、いろいろなことがあったのでしょう。
そんなふうに、思いがけないことがきっかけになって言葉が出てくることがあります。日々のなにげないことから詩や言葉が影響されると思います。
詩がもともとそういう性質なのでしょうが、若松さんの詩は「人間」「自然」「存在」などが中心テーマになっているように思います。
若松:私は東北の田舎に生まれ、自然が豊かなところで育ちました。小さな町ですから人間関係はとても密で、誰が何をしているのか互いによく知っていました。子どもの頃、住民たちは毎朝それぞれの家の前の道を掃除するのですが、誰かが声をかけて話が始まるのでした。そういう自然、人、地域の関係が濃いところで育ったことで、暮らしや人への関心が出てきたのかもしれません。
いま、そういう人間関係は失われてしまいました。大型店ができて小さな店は成り立たなくなり、生活空間としての町がどんどん消滅していっています。また、私たちは核災のために避難しなければなりませんでした。町に戻って来ない人たちもいて、近所づきあいもずいぶん減って、町がどんどん変わってきました。人の暮らは年月とともに変わっていくのだと感じます。
戦争と責任について
戦前と戦後を生きてきた若松さんから見て、日本の社会は戦前と戦後でどう変わりましたか。
若松:大雑把にいえば、本質的には変わっていないと思います。私は、日本人が自らの戦争責任を追及しなかったことが大きなポイントだと思います。戦後というけれども、本当に戦後になったのかと……。その点ドイツは、きちんと追求してきたと思うのです。
戦争責任という面では、ドイツはもちろん日本と違う道を取りましたが、平均的なドイツ人の考えが変わったのかどうか、私は疑問です。たとえばそれは、いまも政治面で現れています。
若松:確かに最近のヨーロッパには右傾化の流れがありますね。日本の場合、東京裁判もありましたが、日本人の手で日本人の戦争責任を追求してこなかったのが、非常に大きな問題だったと思います。
そのために、責任を負うべき人たちが戦後の政治のなかで復活して、幅を利かせてきました。そういう状況のなかで、国民の意識も中途半端だったのではないでしょうか。民主化などといわれましたが、いまは現在の政権のもとで、戦争の準備をしているとしか思えないような方向に向かっています。それを許している国民性に、私は問題があると思うのです。
人間と技術と原子力について
人と技術、核の問題についても少し話してください。
若松:東京電力の福島第一原子力発電所が稼働し始めた1971年、「河北新報」の企画で、私は原子力発電所を見学したことがありました。そのとき、東京電力はなぜ自社の配電エリア内に原子力発電所をつくらずに東北の海のほとりにつくったのか、という疑問を強く感じました。
それ以後、原子力発電所を見ていると、ときどき事故の発表がありました。小さな事故かもしれませんが、事故時ではなく後で発表するのです。その姿勢に、何を考えているのかと思いました。
広島や長崎にも行って現地の人と学習もしました。原発も核爆弾も核を使っていますが、それぞれ「悪用」と「誤用」というべきで、そのエネルギーを用いて電気をつくるのは間違った使い方ではないか、という意識をもつようになりました。核は人間が使ってはいけない。核の半減期をみても、人間が生きる時間の単位とは次元が違います。人間は、自分が生きている時代に責任を取れないものは使ってはいけないと思うのです。
原発がなぜ福島につくられたのか、理由はわかります。原発が危険であることを国と電力会社が認識していたからです。危険でないなら、消費地に発電所を設置するほうが送電線も延長しなくてすむし、損失も少ないはずなのですから。
チェルノブイリ訪問もありますが、その前から反原発の活動をされていたのですか。
若松:わずかの人たちでしたが、集会を開いたり勉強会をしたりしていました。でも、やはりどうしても、双葉町など原発立地地域の人たちとは難しいところがありました。ほかの土地と比べると経済的な理由もあり、原発に勤務している人もいて、おもて立って建設・増設に反対できなかったようです。それでも根気強く話し合いを重ねました。
避難した人のなかでも、自分のところに戻れた人はまだいいですが、戻れない人は精神的に参ってしまいました。浪江町の人たちは線量が高くて帰れないのに、立地地域でなかったため東電の補償もひどかったそうです。
私の知り合いの詩人夫婦も、避難して住まいを点々とし、現在は相馬市で暮らしています。帰れないことに、奥さんより夫のほうが精神に参っていました。もともと昆虫の詩を書いている人ですが、核災が起きた後は、昆虫のことを書いていても全部核災につながって、「帰りたい」という思いが詩のなかにつよく表現されています。
牛も斑点が見つかったり、虫などもいなくなったりと、いろいろなことがわかってきています。
原発事故の後、反原発の運動に参加する人は増えましたか。
若松:いまも人それそれの考えがあります。事故前は容認している人、仕方なく反対できない人がいましたが、実際に避難し、ふるさとに帰れないなどすごく大ごとになって、それで考えも変化しているようです。
人間とは不思議です。帰れないということは、とても大きな精神的ストレスを生むのです。私は「事故」といいたくないので、「戦災」という言葉をヒントにして、「核災」と表現していますが、これがほんものの悪です。
私たちは、外に出てはいけないという「屋内退避」の指示でした。流通が全部ストップしました。食品も新聞も来ないので、私は福島市に逃げました。でも、逃げた福島市のほうが放射線量は高かったのです。ひどい話です。東京や千葉にも線量が高いところがありましたが、そういう情報が入って来ませんでした。
詩を書くということ
若松さんにとって詩を書くということは、どういうことですか。
若松:自分を表現したいという思いはあったと思います。いろいろ試しましたが、文学や短歌は自分には違う感じがして、詩なら勝手な書き方してもよさそうだと思ったのです。
若松さんの本にはヨーロッパの詩人からの影響があると思われますが、ほかにも影響を受けた人はありますか。
若松:ポール・エリュアールとか、戦中、戦後といい作品を書いていた人からは影響を受けました。
日本の詩人ではどうでしょうか。
若松:私は現代詩から入ったので、たとえば、島崎藤村は有名ですが、「自分にとっての詩じゃない」と思いました。いわゆる近代詩はあまり読みませんでした。草野新平は戦争中にひどい詩を書いています。三好達治などもそうですが、戦時中に国策に添った詩を書いた人は信用できません。
私には、子ども時代に戦争についてだまされたという思いがあります。もうこれ以上だまされたくないという思いから、そのあたりをきちんとしておきたいという気持ちがあります。
私は最初に出会った金子光春と、それから中野重治や小熊秀雄などを読みました。そのほかの戦前から書いていた人たちには納得できないものがありました。そういう意味からも私は戦後の詩人です。
教育について
若松さんは長い間、国語の教師でした。国語を教えるのはどんなことでしたか。
若松:結局、自分の思っていることをいうしかない、そんな感じでした。初めて受けた高校の授業で、島崎藤村を得意になって話していた国語の教師にとてもついていけなかったように、私も自分の好みで教えていたような気がします。
当時は教科書を教師が選べました。自分が読んでみて、おもしろそうで気に入った文章が入っている本を選んでいました。たとえば、石牟礼道子の「苦海浄土」の一節を収載した教科書があったので、それを選んだことがあります。生徒に「こんなすごい文章があるんだ」と読ませたいと思って……。そんなふうに好き勝手にやっていました。戦後はある時期、自由なときがありました。
退職する頃はだんだん窮屈になってきました。国歌も、かつては行事で起立して斉唱するなんてことはありませんでした。
私も調べてみると、70年までは戦争責任についても自由に話された感じがします。80年代90年代になると、すこし変わってきたと思うのですが。学校の歴史の教科書から、戦争についての記述がだんだん減ってきました。
若松:少しずつ変化してきたと思います。私が教員だった頃は、職員会議ではすごい議論がありました。それがだんだん伝達になって、管理・締め付けが強くなって、言いたいことが言えなくなったように思います。
「北狄」の精神性
若松さんの『福島原発難民─南相馬市・一詩人の警告1971年〜2011年』(コールサック社、2011年)に、吉田真琴さんの詩が引用されていますね。
若松:吉田真琴さんは双葉の人です。核災発生以前に原発反対を訴えた数少ない詩人のひとりです。私には、安藤昌益について書いた詩もあります。
若松さんの第二詩集『海のほうへ 海のほうから』(花神社、1987年、『若松丈太郎詩選集一三〇篇』コールサック社、2014年所収)にある「北狄(ルビ・ほくてき)二」ですね。北狄は一般に「北方の野蛮人」という意味ですが。。。
若松:私には北の人間だという意識があり、自分の生活圏である日本の北という地域の意味を表現できたらと思っていました。
若い人には批判精神をもってほしい
これからの詩について、どうお考えですか。
若松:もう命の限度くらいにまできていますし、最近は違う形で、たとえばある雑誌に、核災はまだ終わっていないという現状報告のようなものを書きました。現状を伝えるには詩よりも報告みたいなものがいいと思って、いまは書いています。
若い人に向けて何かメッセージはありますか。
若松:世論調査で内閣の支持率が高いなどといわれています。どうしてだろうと思います。若い人には現政権に対する批判や反対の意思表示をもっと出してほしいと思います。
私が子どもの頃は戦争でしたが、いままたこの国では、かつて金子光晴が詩「おっとせい」で批判したように人びとが一つの方向を向いて、イージス艦や戦闘機や潜水艦、空母などを装備し、戦争の準備をしています。戦前と現在の状況が重なるところがあります。
若松さんには教科書を墨で塗りつぶした経験もあるとうかがっていますが。
若松:それはもうショッキングな出来事でした。国民学校4年生、10歳の秋です。戦中には「これは正しい」といっていた同じ教師が、戦後はコロッと変わって「ここは墨で消しなさい」というのです。先生も悩んだと思いますが、そんなことがどうしてできるのか、と本当にショックでした。
言葉によって考え方が急に変わる、誰かが何かをいってそこから考えが急にジャンプするように変わっていくこともあると思います。そういうことはありましたか。
若松:私は終戦の日のことをよく覚えています。その日は何か大きなことが発表されるらしい、と聞いていました。真夏の暑い日でした。ラジオから流れてきた天皇による終戦の放送を聞きながら、開戦の日のことを思い出しました。開戦の日は祖父母といっしょにいましたが、その部屋から外を見ると、積もっている雪がキラキラ光っていました。その風景とともに大本営発表を聞いたときの記憶が蘇ってきたのです。こうして開戦と終戦の記憶が重なったのを覚えています。
チェルノブイリ、南京や広島への訪問は、やはり「戦争はいけない!」という気持ちからですか。
若松:チェルノブイリは、たまたまありがたい機会に恵まれて訪問できました。教職を退職した年に、浪江町で反原発の集会があって参加したときに、知人から「チェルノブイリに行くか」と聞かれて、即答しました。自分が生きた時代の、人間がやってきた悪行の現場を見ておきたいという意識をもっていたからでした。
ありがとうございました。

 

 

 

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Einblicke in ein Gespräch
mit Wakamatsu Jōtarō

Vorbemerkungen


Am 28. und 29. April besuchte ich den Dichter Wakamatsu Jōtarō in seinem Haus in Minami-Soma, einer Stadt mit 50.000 Einwohnern, die etwa 25 Kilometer Luftlinie vom Kernkraftwerk Fukushima Daiichi entfernt liegt, zusammen mit einem befreundeten Arzt, Vertretern der Hyogo Ärztekammer und dem Geschäftsführer eines Kyotoer Verlagshauses.
Als wir ankamen, sah ich, dass er draußen auf dem Parkplatz auf uns wartete. Eine hagere für die hiesigen Verhältnisse größere Gestalt, deren Oberkörper leicht nach links zu neigen schien. Undichtes seidenweißes Haar, dessen Farbe mich an einen ehemaligen Englischprofessor an der Universität Hamburg erinnerte, der sich auf Shakespeare spezialisiert hatte.
Die leichte, aber unübersehbare Krümmung, die die Schulbildung als eine der sicheren - wenn nicht gar die einzige – Errungenschaft mit sich bringt, ist ein ausgeprägtes Beispiel für die herkömmliche Gelehrtenskoliose. Eine kurze visuelle Abtastung seines Körpers verleiht einem den sicheren Eindruck oder auch verleitet einen zu der Schlussfolgerung, dass die Gestalt nicht nur durch den gesamten Irrgarten der institutionellen Bildung gegangen ist, sondern auch eine Menge freiwillig selbst geschrieben haben muss. Er ist aber durchaus gewandt, wirkt agil, begrüßt uns herzlich und führt uns zu seinem Haus.
Am Eingang werden wir von Frau Wakamatsu begrüßt. Sie hat einen sehr angenehmen Gesichtsausdruck und wirkt auf Anhieb sehr sozial und vertraut. Wir werden durch die Küche ins Washitsu geführt. Wir setzen uns um einen großen Kotatsu und bekommen Tee und Süßigkeiten serviert. Während ich meine Utensilien heraushole und überlege, wie ich anfangen soll, beginnt einer meiner Begleiter mit einer Frage. Ich spüre nichts als Dankbarkeit.
Auf diese erste Frage, wie er zum Dichten gekommen sei, wie er angefangen habe, Gedichte zu schreiben, kommt aber keine Reaktion, die als Antwort gelten könnte. Ich übernehme nolens volens die Führung. Am liebsten würde ich ihm keine Fragen stellen, sondern ihn frei reden lassen. Es geht aber nicht.
Der Grund ist, dass er sehr bescheiden ist. Er will nicht von sich aus über sich selbst reden, was ich gut verstehen kann. Er scheint darüber hinaus Ehrfurcht vor mir zu haben. Es ist eine befremdende komplizierte Lage. Es sieht so aus, als ob wir beide dazu neigen, an der gleichen selbst auferlegten Hürde zu scheitern. Ich spreche ihn ehrfurchtsvoll mit »Sensei« an, stoße aber prompt auf heftigen Widerstand seinerseits. Er will nicht »Meister« genannt werden, obwohl er zweifellos in vielerlei Hinsicht ein Sensei ist. Er sagt, er habe nichts getan, tue nichts, was es legitimieren würde, Sensei genannt zu werden.


Unscheinbare Quellen der Dichtung

 

Was bedeutet für Sie als Dichter das Verhältnis zwischen Mensch und Sprache, Herr Wakamatsu?

Wakamatsu: Einmal sah ich den Film Die Wanderschauspieler des griechischen Regisseurs Theo Angelopoulos. Eine Szene darin hat mich tief beeindruckt. Die Wanderschauspieler gehen durch eine Stadt – und in einem einzigen Moment springt das Bild zwischen Vergangenheit und Gegenwart hin und her. Ich hatte das Gefühl, darin einen Hinweis zu finden, dass sich so etwas auch in der Dichtung umsetzen ließe. Ich sehe Filme selten zweimal, aber diesen habe ich zweimal gesehen. Angelopoulos ist im selben Jahr geboren wie ich. In seiner Kindheit hat er den Krieg erlebt – da wird er vieles durchgemacht haben.
Auf solche Weise kann manchmal etwas ganz Unerwartetes zum Auslöser werden, und plötzlich kommen Worte hervor. Ich denke, dass Gedichte und Sprache oft durch scheinbar belanglose Dinge des Alltags beeinflusst werden.


Das liegt vielleicht im Wesen der Dichtung selbst, ich habe aber den Eindruck, dass sich Ihre Gedichte vor allem um Themen wie »Mensch«, »Natur« und »Sein« drehen.

Wakamatsu: Ich wurde auf dem Land in der Tōhoku-Region geboren und bin in einer Gegend mit reicher Natur aufgewachsen. Es war eine kleine Stadt, und die Beziehungen zwischen den Menschen waren sehr eng – jeder wusste ziemlich genau, was die anderen machten. Als Kind habe ich oft beobachtet, wie die Bewohner morgens vor ihren Häusern die Straße kehrten. Irgendwer sprach jemanden an, und daraus entstand ein Gespräch. Vielleicht hat mich dieses enge Geflecht aus Natur, Menschen und Nachbarschaft dafür sensibilisiert, mich im Leben und in der Dichtung stärker für den Alltag und die Menschen zu interessieren.
Heutzutage sind diese Beziehungen verloren gegangen. Die kleinen Läden sind wegen der großen Einkaufszentren nicht mehr lebensfähig, und die Stadt als Lebens- und Wohnraum verschwindet rapide. Wir mussten auch noch wegen der Atomkatastrophe evakuiert werden. Manche Menschen sind nicht mehr in die Stadt zurückgekehrt, die Nachbarschaften sind stark geschrumpft und die Stadt verändert sich rapide. Ich habe das Gefühl, dass sich das Leben der Menschen jährlich, ja monatlich verändert.


Über Krieg und Verantwortung


Wie hat sich die japanische Gesellschaft aus der Sicht von Herrn Wakamatsu, der die Vorkriegs- und Nachkriegszeit erlebt hat, zwischen der Vorkriegs- und der Nachkriegszeit verändert?

 

Wakamatsu: Grob gesagt denke ich, dass sich im Wesentlichen nichts verändert hat. Für mich ist ein entscheidender Punkt, dass die Japaner ihre eigene Verantwortung für den Krieg nicht wirklich aufgearbeitet haben. Man spricht zwar von der Nachkriegszeit – aber hat diese Nachkriegszeit tatsächlich begonnen? In dieser Hinsicht, so denke ich, hat Deutschland seine Verantwortung deutlich konsequenter verfolgt.


Was die Frage der Kriegsverantwortung betrifft, ist Deutschland natürlich einen anderen Weg gegangen als Japan. Aber ich frage mich, ob sich die Denkweise des durchschnittlichen Deutschen tatsächlich verändert hat. Man sieht zum Beispiel auch heute noch politische Erscheinungen, die Zweifel daran aufkommen lassen.


Wakamatsu: Es stimmt, dass wir in Europa derzeit einen Rechtsruck beobachten. In Japan gab es zwar die Tokioter Prozesse, aber das eigentliche Problem liegt meiner Meinung nach darin, dass die Japaner ihre Kriegsverantwortung nicht aus eigener Initiative heraus aufgearbeitet haben.
Deshalb konnten jene, die eigentlich Verantwortung hätten übernehmen müssen, nach dem Krieg in der Politik wiederaufsteigen und Einfluss gewinnen. In einer solchen Situation war auch das Bewusstsein der Bevölkerung wohl nur halbherzig. Man sprach von Demokratisierung, doch heute habe ich den Eindruck, dass wir uns unter der aktuellen Regierung in eine Richtung bewegen, die man kaum anders deuten kann als eine Vorbereitung auf den Krieg. Ich denke, das eigentliche Problem liegt in der Mentalität der Bevölkerung, die so etwas zulässt.


Vom Menschen, der Technik und der Atomkraft


Würden Sie auch etwas zum Verhältnis von Mensch und Technik sagen – und zur Problematik der Atomkraft?

 

Wakamatsu: Als das Kernkraftwerk Fukushima Daiichi der Tōkyō Electric Power Company 1971 in Betrieb ging, hatte ich im Rahmen eines Beitrags der Zeitung Kahoku Shimpō Gelegenheit, das Kraftwerk zu besichtigen.
Damals stellte sich mir sehr eindringlich die Frage, warum Tōkyō Electric Power kein Atomkraftwerk in seinem eigenen Versorgungsgebiet gebaut hat, sondern stattdessen eines an der Küste im Nordosten Japans.
Seitdem verfolgte ich die Kernkraftwerke uns sah, dass es gelegentlich Unfälle gab. Dabei dürfte es sich um kleinere Unfälle gehandelt haben, aber sie gaben sie später bekannt, nicht zum Zeitpunkt des Unfalls. Ich habe mich gefragt, was sie sich bei dieser Haltung gedacht haben.
Ich habe auch Hiroshima und Nagasaki besucht und mich dort gemeinsam mit den Menschen vor Ort mit der Thematik auseinandergesetzt von ihnen aufklären lassen. Dort bin ich zur Überzeugung gekommen, dass Atomkraftwerke und Atombomben beide die gleiche nukleare Energie nutzen, deshalb als »Missbrauch« bzw. »Fehlgebrauch« bezeichnet werden müssen und, dass es grundsätzlich falsch ist, diese Energie zur Stromerzeugung zu nutzen. Kernenergie ist etwas, das der Mensch nicht nutzen darf. Schon allein ihre Halbwertszeit liegt in einer völlig anderen Dimension als die Zeiteinheit, in der Menschen leben. Ich denke, der Mensch sollte nichts verwenden, für dessen Folgen er nicht innerhalb seiner eigenen Lebenszeit Verantwortung übernehmen kann.
Es ist leicht zu erkennen, warum das Kernkraftwerk in Fukushima gebaut wurde. Die Regierung und die Stromkonzerne wussten, dass Kernkraftwerke gefährlich sind. Wären sie nicht gefährlich gewesen, wäre es besser gewesen, die Anlagen in den Verbrauchsgebieten zu errichten, damit die Übertragungsleitungen nicht verlängert werden müssten und kostenbedingte Verluste geringer ausfielen.

 

Sie haben auch Tschernobyl besucht – aber waren Sie bereits vor diesem Besuch in der Anti-Atomkraft-Bewegung aktiv?


Wakamatsu: Wir waren nur eine kleine Gruppe, aber wir organisierten Versammlungen und Studienkreise. Doch der Austausch mit den Menschen in den Gemeinden, in denen Atomkraftwerke gebaut wurden – etwa in Futaba – war nicht einfach. Im Vergleich zu anderen Regionen spielten wirtschaftliche Gründe eine große Rolle. Manche arbeiteten selbst im Kraftwerk, und so konnte man sich nicht offen gegen den Bau oder die Erweiterung stellen. Trotzdem führten wir beharrlich immer wieder Gespräche.
Von den Evakuierten sind diejenigen, die an ihren Wohnort zurückkehren konnten, noch in Ordnung, aber diejenigen, die nicht zurückkehren konnten, leiden unter psychischen Problemen. Die Menschen in der Stadt Namie zum Beispiel konnten wegen der hohen Strahlenbelastung nicht zurückkehren – und doch erhielten sie kaum Entschädigung von TEPCO, weil ihre Gemeinde nicht direkt zum Standortgebiet des Kraftwerks gehörte.
Ein befreundetes Dichterpaar von mir musste ebenfalls evakuieren und zog von Ort zu Ort. Heute leben sie in der Stadt Sōma. Der Umstand, nicht zurückkehren zu können, hat dem Ehemann stärker zugesetzt als der Ehefrau. Er ist eigentlich jemand, der Gedichte über Insekten schreibt – aber seit der Nuklearkatastrophe führt selbst das Schreiben über Insekten immer wieder zurück zum Thema der Katastrophe. In seinen Gedichten kommt der Wunsch, »nach Hause zurückzukehren«, sehr stark zum Ausdruck.
Man hat festgestellt, dass zum Beispiel bei Rindern Flecken aufgetreten sind, und auch Insekten sind verschwunden – nach und nach werden immer mehr solcher Dinge bekannt.


Hat sich nach dem Atomunfall die Zahl derjenigen erhöht, die sich an der Anti-Atomkraft-Bewegung beteiligen?

 

Wakamatsu: Auch heute hat jeder seine eigene Meinung. Vor dem Unfall gab es Leute, die es akzeptierten, und Leute, die sich nicht dagegen wehren konnten, weil sie keine andere Wahl hatten. Aber jetzt, wo es zu einer großen Sache geworden ist, wo die Menschen tatsächlich evakuiert wurden und nicht mehr in ihre Heimatstädte zurückkehren können, scheint sich ihre Einstellungen zu ändern.
Der Mensch ist schon ein merkwürdiges Wesen. Nicht nach Hause gehen zu können, bedeutet eine große emotionale Belastung. Ich möchte es nicht als »Unfall« bezeichnen, sondern gebrauche in Anlehnung an den Begriff »Kriegskatastrophe«, den Begriff »Kernkatastrophe«, die das wahre Böse ist.
Uns wurde damals angeordnet, das Haus nicht zu verlassen – »Schutz im Inneren« hieß es. Der gesamte Warenverkehr kam zum Erliegen. Es kamen weder Lebensmittel noch Zeitungen, also bin ich nach Fukushima-Stadt geflohen. Doch dort, wohin ich geflohen war, war die Strahlenbelastung sogar noch höher. Es war einfach schrecklich. Auch in Tokio und Chiba gab es Gebiete mit hoher Strahlung, aber solche Informationen erreichten uns nicht.


Über das Dichten


Was bedeutet es für Sie, Herr Wakamatsu, Gedichte zu schreiben?


Wakamatsu: Ich denke, in mir war das Bedürfnis, mich auszudrücken. Ich habe Verschiedenes ausprobiert, aber ich hatte das Gefühl, dass Literatur oder Tanka irgendwie nicht zu mir passte. Bei der Lyrik hingegen hatte ich den Eindruck, dass ich darin freier schreiben kann, so wie ich es will.


In Ihren Büchern scheint es einige Einflüsse von europäischen Dichtern zu geben, aber wer hat Sie sonst noch beeinflusst?


Wakamatsu: Ich wurde von Leuten wie Paul Éluard beeinflusst, die während und nach dem Krieg gute Werke geschrieben haben.


Wie ist es mit japanischen Dichtern – gab es auch unter ihnen welche, die Sie beeinflusst haben?


Wakamatsu: Ich habe mit moderner Lyrik angefangen, Shimazaki Toson zum Beispiel ist berühmt, aber ich dachte: »Das ist keine Lyrik für mich«. Ich habe nicht viel sogenannte moderne Lyrik gelesen. Kusano Shimpei hat während des Krieges schreckliche Gedichte geschrieben. Das Gleiche gilt für Miyoshi Tatsuji und andere; ich traue Leuten nicht, die während des Krieges Gedichte geschrieben haben, die der nationalen Politik entsprachen.
Ich habe das Gefühl, dass man mich in meiner Kindheit über den Krieg belogen hat. Aus dem Wunsch heraus, nie wieder belogen zu werden, habe ich das Bedürfnis, diese Dinge für mich klar und konsequent aufzuarbeiten.
Ich lernte zuerst Mitsuharu Kaneko kennen und las dann Shigeharu Nakano und Hideo Oguma. Die anderen Leute, die schon vor dem Krieg geschrieben hatten, überzeugten mich nicht. Auch in diesem Sinne bin ich ein Nachkriegsdichter.


Über das Bildungswesen


Herr Wakamatsu, Sie waren viele Jahre lang als Japanischlehrer tätig. Wie haben Sie das Unterrichten des Fachs »Kokugo« erlebt? Was bedeutete es für Sie, »Kokugo« zu unterrichten?


Wakamatsu: Letztlich blieb mir nichts anderes übrig, als das zu sagen, was ich selbst dachte – so in etwa fühlte es sich an. Ich erinnere mich noch gut an den ersten Japanischunterricht in der Oberschule: Der Lehrer sprach begeistert über Shimazaki Tōson, aber ich konnte ihm überhaupt nicht folgen. Im Rückblick denke ich, dass auch ich den Unterricht weitgehend nach meinem eigenen Geschmack gestaltet habe.
Damals konnten die Lehrer die Lehrbücher auswählen. Ich wählte Bücher, die ich gelesen hatte und die Passagen enthielten, die ich interessant fand und mochte. Ich habe zum Beispiel einmal ein Lehrbuch ausgewählt, das eine Passage aus Ishimure Michikos »Das reine Land des bitteren Meeres« enthielt. Ich wollte, dass meine Schülerinnen und Schüler es lesen und sagen: »Das ist so ein toller Text". So habe ich den Unterricht ziemlich nach meinem eigenen Geschmack gestaltet. In der Nachkriegszeit gab es eine Phase, in der so etwas möglich war – eine gewisse Freiheit.
Gegen Ende meines Berufslebens wurde alles allmählich immer beengter. Früher war es bei Schulveranstaltungen keineswegs üblich, beim Abspielen der Nationalhymne aufzustehen und mitzusingen – das kam erst später.


Ich selbst habe ein wenig recherchiert und gewann den Eindruck, dass bis etwa 1970 noch relativ frei über die Kriegsverantwortung gesprochen werden konnte. Danach in den 1980er- und 1990er-Jahren hat sich das, so scheint mir, allmählich verändert. In den Schulgeschichtsbüchern wurden die Passagen über den Krieg nach und nach immer weiter gekürzt.


Wakamatsu: Ich glaube, die Dinge haben sich allmählich geändert. Als ich noch Lehrer war, gab es in den Personalversammlungen intensive Diskussionen. Doch nach und nach wandelte sich das: Aus Diskussionen wurden bloße Mitteilungen, die Kontrolle und der Druck von oben nahmen zu, und schließlich hatte man das Gefühl, nicht mehr frei sagen zu können, was man dachte


Die Geisteshaltung der »Nordbarbaren"


In Ihrem Buch Fukushima-Atomkraftwerksflüchtling – Die Warnung eines Dichters aus Minamisōma, 1971-2011 (veröffentlicht bei coal-sack, 2011), zitieren Sie ein Gedicht von Makoto Yoshida, nicht wahr?


Wakamatsu: Makoto Yoshida stammt aus Futaba. Er war einer der wenigen Dichter, die sich schon vor der Nuklearkatastrophe öffentlich gegen die Atomkraft ausgesprochen haben. Ich selbst habe auch ein Gedicht über Andō Shōeki geschrieben.


Es handelt sich um das Gedicht »Nordbarbaren (Hokuteki) II« aus Ihrem zweiten Gedichtband Umi no hō e – Umi no hō kara (Hin zum Meer – Vom Meer her, Hanashinsha, 1987; enthalten auch in Ausgewählte Gedichte von Jōtarō Wakamatsu – 130 Gedichte, coal-sack Verlag, 2014). »Hokuteki« bezeichnet gewöhnlich »die Barbaren aus dem Norden«.


Wakamatsu: Ich hatte das Bewusstsein, ein Mensch des Nordens zu sein, und ich wollte die Bedeutung der Region, die den Norden Japans und meinen Lebensraum ausmacht, zum Ausdruck bringen.


Der Jugend wünsche ich einen wachen, kritischen Geist

 

Wie sehen Sie die zukünftige Entwicklung Ihrer Dichtung?


Wakamatsu: Ich bin inzwischen an einem Punkt angekommen, an dem auch mein eigenes Leben seine Grenze erreicht hat. In letzter Zeit schreibe ich in anderer Form – zum Beispiel habe ich für eine Zeitschrift etwas verfasst, das wie ein Bericht über die aktuelle Lage wirkt, mit dem Gedanken, dass die Kernkatastrophe noch längst nicht vorbei ist. Wenn es darum geht, die aktuelle Realität zu vermitteln, scheint mir eine sachliche Darstellung geeigneter als ein Gedicht – deshalb schreibe ich momentan in dieser Form.


Haben Sie eine Botschaft für junge Menschen?


Wakamatsu: In Meinungsumfragen heißt es oft, die Unterstützung für die Regierung sei hoch. Ich frage mich wirklich, warum das so ist. Von jungen Menschen wünsche ich mir, dass sie ihre Kritik und ihren Widerstand gegenüber der aktuellen Regierung stärker zum Ausdruck bringen.
Als ich ein Kind war, herrschte Krieg. Und heute sehe ich in diesem Land erneut eine Entwicklung, bei der sich – so wie es einst Kaneko Mitsuharu in seinem Gedicht »Der Seelöwe« kritisierte – die Menschen wieder in eine Richtung ausrichten. Man rüstet sich mit Aegis-Zerstörern, Kampfflugzeugen, U-Booten, Flugzeugträgern – das sieht für mich aus wie eine Vorbereitung auf den Krieg. Es gibt Überschneidungen zwischen der Vorkriegszeit und der heutigen Situation.


Es heißt, Sie hätten einmal Stellen in Schulbüchern mit schwarzer Tinte übermalt. Können Sie davon erzählen?


Wakamatsu: Das war wirklich ein schockierendes Ereignis. Ich war in der vierten Klasse der Nationalen Schule, im Herbst, als ich zehn Jahre alt war. Derselbe Lehrer, der während des Krieges uns gesagt hatte »das ist richtig«, änderte sich nach dem Krieg plötzlich und sagte uns, wir sollten »diesen Teil mit schwarzer Tinte ausradieren«. Ich glaube, auch der Lehrer hat innerlich damit gerungen. Aber ich konnte einfach nicht begreifen, wie so etwas möglich war – es war ein tiefer Schock für mich.


Manchmal verändern sich Denkweisen ganz plötzlich durch ein bestimmtes Wort – jemand sagt etwas, und plötzlich springt das eigene Denken in eine neue Richtung. Haben Sie so etwas auch erlebt?


Wakamatsu: Ich erinnere mich sehr genau an den Tag der Kapitulation. Damals hieß es, dass an diesem Tag etwas Großes bekannt gegeben würde. Es war ein heißer Sommertag. Während ich die Rundfunkansprache des Kaisers zur Beendigung des Krieges hörte, kamen mir plötzlich die Erinnerungen an den Tag des Kriegseintritts zurück. Damals war ich mit meinen Großeltern zusammen, und als ich aus dem Zimmerfenster schaute, glitzerte der Schnee draußen im Licht.
Mit diesem Bild vor Augen hörte ich die Verlautbarung des kaiserlichen Hauptquartiers – diese Szene hat sich tief eingeprägt. So überlagerten sich für mich die Erinnerungen an den Kriegsbeginn und das Kriegsende.


War Ihr Besuch in Tschernobyl, Nanjing oder Hiroshima letztlich von dem Gefühl getragen: »Es darf nie Krieg sein«?


Wakamatsu: Dass ich nach Tschernobyl reisen konnte, war eine glückliche Fügung. Im Jahr meiner Pensionierung fand in der Stadt Namie eine Anti-Atomkraft-Versammlung statt, an der ich teilnahm. Dort fragte mich ein Bekannter: »Willst du nach Tschernobyl?« – und ich sagte sofort Ja. Ich hatte das starke Bedürfnis, mit eigenen Augen die Orte zu sehen, an denen sich die Untaten, die der Mensch in meiner Lebenszeit angerichtet hat, konkret manifestiert haben.


Danke für das Gespräch!

 

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